HELLMEN

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第一話 不思議の店

「ここは……」
周りは真っ暗な空間。そして目の前には一つのドア。表面が木製で古錆びた金属が縁取っている。
その向こうからは陽気な音楽が耳に届く。ドアにある丸いのぞき窓からは、薄暗い中にたくさんの明かりと人影が見えた。何も考えず、ノブに手をかけ、ドアを開ける。音楽が大きく響く。
そして僕は立ち尽くしていた。
ホールの天井からは幾つものきらびやかなランプが吊り下がり、壁の周りにはテーブルにはお酒を飲み笑顔で語り合うドレス姿の女性やお洒落なスーツの男性たち。囲まれた中心ではそんな人々がたくさんペアを組んでダンスを踊っていた。
「……ダンスホール? キャバレー?」
そんな風に言うんだっけ、こういうお店。もちろんこんなお店に入ったことはないから、バーとかそういうのとの違いなんて分からないけれど。
とにかく僕は今、今までの十四年の人生に全く縁の無い場所にいる。そしてこれは夢の中なんだということを理解した。その証拠に僕はベッドに入ったときそのままのパジャマ姿だったから。夢なんて大抵こんなめちゃくちゃなものだし、いくらなんでも自分が実は酷い夢遊病だったなんて思いたくない。けれど夢は夢でも、ずいぶんはっきり見える夢だ。
僕が立っていたのは入り口あたり。どうせ夢なのだからと、場違い感もあまり気にせず、ぐるっと店内を見渡す。実際周りの人達は僕のことを全く気にも止めてないみたいだ。子供がこんな所でなにをしてるんだいとか、そんなことを話しかけてくる人もいない。ひょっとしてこの夢の中の人たちには見えてもいないんじゃないだろうか。そう思いつつお客たちを眺めていたとき。
入り口からちょうど反対側、一番奥のテーブル、そこに座る女性が帽子の下から一瞬だけ、僕と目が合ったような気がした。
はっとして目を凝らすけれど、踊る人々が壁となってその姿は見えなくなる。気のせいだったのかな。
にぎやかな喧騒の中、壁沿いに歩いて回る。店は大繁盛なんだろう、どこのテーブルも椅子に空きがない。やっぱり僕の姿に反応はなく、人々はみんなお話に夢中のよう。けれど端々から聞こえる言葉はどこかでたらめというか、会話が噛み合ってないかのように聞こえた。みんな酔っ払っているのか、それとも夢の中の住人だからだろうか。
店を半周すると、ちょうど一つだけ空いているテーブルがあった。たまたま空いているというより、特別なテーブルなのだろうか。なぜならそこに座っているのは一人だけ。それはさっきの目が合った気がした女性だった。いや、
「どうしたの、空いてるわよ」
彼女は――近づいてその帽子の下の顔を見てやっと気づいたけれど、僕と同様、この店には余りそぐわない――少女だった。
促されて、断る理由も思いつかなかったので、とりあえず向かいの椅子に腰掛けた。黒いドレスに肘までの手袋、飾りのたくさんついた帽子姿は確かにこの店の雰囲気には溶け込んではいるけれど、その芯の強そうな(というかちょっとキツ目の)顔は僕と同じ歳か一、二歳程年上だろうか。テーブルの上にはコーンスープのお皿、それをスプーンですくったりしながら、彼女は言った。
「それで――今日のパリは晴れてたかしら」
その突然の質問に、余りの脈絡の無さに、僕はあっけに取られてしまった。だけどこれが夢の中での初めての会話だったので、少しだけ嬉しくなって一応答える。
「晴れてた……けど?」
「ふうん、そう」
しかし返ってきた反応はそれだけだった。やっぱり夢の中、登場人物はめちゃくちゃな人たちばかりなのだろう。隣の席のご年配のおば様も、聞き耳を立てるとさっきから同じ話を繰り返している。
――姪に誕生祝いを送りたいと思うのだけれど、せっかくだからエッフェル塔の絵葉書を使いたいですわ。塔まで行けば買えるのかしら――
おぼろげに、あのシルエットを思い出す。
「エッフェル塔かあ」
ぽつりと呟いた僕に、再び目の前の少女は口を開いた。
「あなた、買って来てあげたら?」
「えっ」
またもやの唐突な言葉に面食らう。そして彼女はご夫人の肩を叩いて言った。
「こちらの少年が今度プレゼントしてくれるんですって」
振り向いた婦人は不思議そうに、そして焦点の合ってない目で僕を見た。怖い。
「東柱チケット売り場の横で買えるそうよ、絵葉書」
それだけ言って、少女は澄ました顔でスープを飲む。
「……はあ」
そして、視界がぼやけて行くのを感じた。この不思議な店が、朝もやの霧に消えて行く――

とある秋の日、僕が見た夢は、こんなふうだった。

   * * *

晴れ渡る空は、もうすっかり秋景色だった。

196X年、パリ。万聖祭の秋休み。
少し前から始まっていた新学期、新しいクラスに僕は馴染めてなくて。
そんなふうだから、この休日に誰か友達を誘ったりもせずに、僕は最初の一日を無駄に過ごそうとしている。
最初は家の近くの公園に行ってみた。
そこは休暇を楽しむ人たちで賑わっていて。テラスでカフェを楽しむ老夫婦、犬と散歩している綺麗なお姉さん、ベンチで新聞を読むモッズなお兄さん、ボールを蹴りあう同年代の少年たち。
けれど僕は一人で、何をする訳でもない。そんな心持ちであの少年たちを見てると、何だか肩身が狭くて、僕の居場所はないような気がして来て。
捨てられた新聞にはビートルズの新曲がどうだとか、アメリカの大統領の事件とか、はたまた市内の動物園の亀の話や、エッフェル塔の塗装直しなんて記事が書いてあった。
それで、僕は昨晩見た夢を思い出していた。いつも夢なんて朝起きてしばらく経てばすっかり忘れてしまうのに、あの不思議なお店と少女は記憶にしっかり焼きついていた。木々の隙間から遠く、薄い色をしたエッフェル塔が見える。遠くといってもここから数キロくらい。歩いて一時間程度だろうか。まだ間近で見たことはないあの塔まで行くのは、ちょうどいい暇つぶしになるかもしれない。そう思って、僕は歩き出した。
セーヌ川を渡り、ノートルダム大聖堂を横目にシャン・ド・マルス公園へ。
そこに、エッフェル塔はよく写真で見たとおり、優雅に佇んでいた。ゆるやかなカーブを描く四本の足。その根元にチケット売り場がある。休日というわけで、エレベータチケットには長い人の列。僕は空いてる方の階段のチケットを買った。こっちの方が少し安い。
そしてふと、記憶の中の少女の言葉を思い出す。
「東柱チケット売り場の横……」
見れば確かに、お土産の売店がある。くるくる回るカードラックには、やっぱり何種類ものエッフェル塔の絵葉書。別にあの婦人のためという訳では無いけれど、せっかくだからと、少女の言葉に流されるよう一枚購入した。
階段を上って展望台へ。そこから眺める景色は確かに綺麗だった。足元には公園の木々が金色に輝き、斜めに流れるセーヌ川のシテ島にはさっき通り過ぎた大聖堂。その向こうには、モンマルトルの丘と、サクレ・クール寺院が遠く見えた。
ここのどこかに、僕の居場所はあるのだろうか。

相変わらず、景色とは違い曇ったままの心。あの不思議な夢がそれを晴らしてくれるのを期待していたのだろうか、僕は絵葉書をパジャマのポケットに入れて、その日、眠りについた。