HELLMEN

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第1話 一日目

懐かしさというものは、目に映る景色だったり、耳に聞こえる音だったり色々だけど、普段あまり意識しない分、匂いというものがそれを強く思い起こさせる時があると思う。改札を越えて駅の外に歩み出た私は、何よりも先に、髪をなびかせた潮風の香りに、ああ、帰って来たんだなと、ここが間違いなく私の故郷なんだと実感した。
空を見上げると、どこまでも晴れた青い空。セミの声が止まらず鳴きつづける、夏真っ盛りだ。
それにしても視界にちょっと違和感があるのは、駅前の商店街を彩る、紅と白の飾りがあるせいだろうか。
「そっか、今はちょうど夏祭りの時期だったっけ」
それぞれのお店の名前が書かれたその提灯たちは中に明かりが灯されるのを待っている。それはあと一時間後くらいだろうか。今はまだ、西の空が茜色に染まりだした頃だった。

せっかくだからと、私は肩に下げて持って来たカメラを構えた。大学に入って、友人から譲られた結構立派なクラシックカメラ。どうせならこんなデカくて重いのよりも、最近のスリムなデジカメのほうがいいんだけど。まあ使い始めて、一眼レフならではのピントや絞りをいじるという行為が少しカッコよく思えてもきている。とにかく、ド素人とはいえ私の唯一といえる趣味を少しは実行しようと、そのファィンダーを覗く。駅舎や通りを写し、そのまま視線を移していくと、ふと、見慣れない光景がファインダーを横切った。
「ん?」
カメラを下ろし、その方向を肉眼で眺める。
「……へえ」
人通りの多い商店街とは逆方向の、海へと続く斜面の手前。昔は雑草が生い茂るただの草むらだったはずが、今では一面の黄金色、背の高い向日葵畑になっていた。なんだろう、新しい町興しか。それとも油の製造業でも始めたのかな、ここは。
児童公園くらいの広さしかないけど、そこそこ綺麗な風景と思いカメラに収める。中で雑草の手入れをしていた麦わら帽の女性が私に気付き、会釈をした。
うん。いい写真が撮れたかも。

    * * *

故郷ではあるけれど、ここに私が住んでいた家はもうない。一家で引越していった後、すぐに取り壊されたそうだ。
宿は駅から離れた、海沿いの旅館をとった。畳の匂いが心地いい部屋で、荷物を置いて一息つく。窓を開け、扇風機のスイッチを入れる。吊るされた風鈴が、涼しい音を響かせる。
それをぼんやりと聞いていた私は、知らず、うとうとしてしまっていた。慣れない土地というわけではないのだけれど、旅の疲れが出たのだろうか。
眠気はゆっくりと、私を包み込み――

    * * *

遠くから、かすかに聞こえる祭囃子の音――それは東京では聞くことのできない、あの懐かしい盆踊りの歌――
「――は」
目を開けば薄暗い部屋、外を見ればすっかり夜。
「あ……、つい寝ちゃってた……」
寝起きのせいか、風鈴を揺らす風はさっきまでと違い、少し肌寒く感じる。時計を見れば午後八時頃。お腹はけっこう空いている。
「……祭りの屋台でも食べよっかな」
さすがに匂いまではここまで届かないけれど、耳に聞こえるあの音が、私の食欲をたいそう刺激した。ま、せっかくだから色々見て回りたいしね。

    * * *

道を歩けば、浴衣姿の子供たちが同じ方向へと走っていく。カランコロンという下駄の音がかわいらしい。その先にはあの提灯が赤々と灯っていた。
鈴や篠笛が響き、太鼓のリズムが胸を打つ。それに合わせて子供たちの盆踊りが輪を描き、ゆっくりと回っていく。
なつかしいなあ。確かあれに参加すると、お菓子もらえるんだっけか。
クラゲのようにふくらんだまぶしい照明の中で、屋台で買った焼き鳥を食べながら、その光景を眺めつつ写真を撮る。ゆっくりと進む人ごみの流れに従い、祭りの中心である神社や、出店をひととおり回ると、フィルムはほとんど無くなってしまっていた。
そしてアナウンスが流れる。
――これにて、第37回、冷涼盆踊り祭りを終了いたします――
その声が終わりを告げると、熱気は急速に冷め、夜は涼しさを取り戻していく。
あのクラゲのような明かりは消えてしぼみ、提灯の明かりの行列は輝きを失う。
屋台のおじちゃんがカキ氷機から氷を取り出し捨てると、その冷たさに驚いたのか、子犬が飛び跳ね、引っ張られた飼い主は持っていたクレープを落としてしまっていた。
誰もが皆、何をそんなに急いでいるのかというように、大勢いた人々はあっという間に家路に着く。
楽しそうにしゃべりながら遠ざかる子供達、その後姿にかつての自分を重ねると、この、何とも言えない、寂しい気持ちが、私の胸を締め付けて。
「……ずっと終わらなきゃいいのに」
知らず、そうつぶやいていた。
「あたしも、そう思うよ」
「――えっ?」
その言葉に気がつけば、私の横にはピンクの浴衣を着た一人の少女が。手にはヨーヨーを持ち、頭にはセーラームーンのお面をつけ、そしてその顔は……。
「だよね、お姉さん」
「あ、う、うん。そうだね」
どこか見覚えがある顔。親戚の子に似たような子がいたかな?
「……お嬢ちゃん、一人?」
なんとなく聞いてみる。
「うん……今日はね。友達が来れなかったから」
少し寂しそうに、少女はそう答えた。
「そう、それは残念だね」
「お姉さんも?」
「え? あ、うん、私は旅行でたまたま来ただけだから」
「そっか。お祭り、一緒に回れたらよかったのに」
「そうだね……そうだ」
私はカメラを取り出した。
「ね、旅行の記念に、一枚撮ってもいいかな」
「いいよ。一枚じゃなく何枚でも」
そういって、少女はおどけたポーズをとってみせる。
「ありがとう。じゃ、撮るよ、はいチーズ」
パチリと一枚。お言葉に甘えてさらに数枚撮ろうと思ったけど。
「あら、フィルムもうなくなっちゃった」
動かない巻き上げレバーが、もう三十六枚撮り終わってしまったことを示している。こういうのはデジカメには敵わない点だ。だからこそいいって言う人もいるけど。
「なんだ〜残念。んじゃね、お姉さんっ」
そう言って、少女は駆けていく。
「あっ」
まさに、あっという間に、その姿は夜の街に消えていった。
元気な子だなあ。ノリもいいし、あの子とはちょっと違うかな。
……あの子?
「……誰だっけ?」
私は今、誰のことを思ったのだろう。
「ま、いっか」
きっとそのうち思い出せる。なんとなく、そんな気がした。

    * * *

私は宿に戻り、眠りに着いた。
そして私は夢を見る。
重く、暗い、闇の中。でもそこへ、自ら沈み行く身体。
どこへ行くの? それとも、どこへも行かないの?
深く、深く、私の心はその中へ――