HELLMEN

TOP | PROJECT | GALLERY | OTHER | ARCHIVE
第5話 夢

はっ――はっ――はっ――
夢を見た。
激しい息遣いが聞こえる。
揺れる町並みが見える。
私は走っていた。その景色は今日も見た町並み。もう数日目ともなると懐かしさは薄れて来ているはずなのに、どこか哀愁感すら感じるのは目線の低さのせいか。
はっ――はっ――はっ――
そうか、これは当時の私だ。この町の記憶にふさわしい、まだランドセルを背負っていた頃の、小さく幼い私。目線の低さ……駅から降り立ったときに感じた違和感はこれだったのだ。
道端の草花にすぐ手が届き、赤いポストに頭が並び、自動販売機を見上げ、高い家々の屋根の向こうに、限り無く青い空を見上げる私。走っているとはいえ狭い歩幅が、その視界と合わさって――ビデオカメラで眺めていたような一歩離れた視線の記憶は、肉眼で視る鮮明な現実へと奥行きを無限に広げる。
私は今、かつてそうだった、小さな少女そのものとなる。

そうだ、この、暑く爽やかな夏は――
あの輝いていた、永遠にも思えた――
そして私の、この町での、最後の夏なのだ――

    * * *

「なっちゃん!」
走ってたどり着いた先は、もちろんいつもの児童公園。あたしたちの暗黙の待ち合わせ場所だ。
あたしの声に振り返った彼女は、麦わら帽の下で優しくほほ笑んだ。しかしあたしは知っている。こういう顔をするときのなっちゃんは、大抵なにか悪巧みをしているのだ。
「ごめんおまたせ――って、何持ってるの?」
「ふふ」
その両手は重なり、何かを包むようにしている。
「見たい?」
そう言うなっちゃんの目は期待に溢れていて、それが一層あたしの興味を掻き立てる。
「うんっ!」
その声にニンマリしたなっちゃんは、手の甲をそっと開く。前のめりに覗きこんだあたしは、
「……なに? これ」
そう言うしかなかった。てっきりでっかいカブトムシとかを想像してたあたしは拍子抜けする。そこにあったのは、おはじきが縦に伸びたような、ひらべったいシマシマのもの。それが手の中に一杯だった。
「なにって、あんた、これ知らないの?」
「知らない」
あたしが驚き喜ぶのを期待していたんだろう、なっちゃんはガッカリしながら言った。
「これはタネだよ。向日葵のタネ」
「タネ? こんな大きいのが?」
大きいといっても、あたしの比較対象は前に学校で育てたアサガオのしか知らないのだけれど。
「あんなデカい花が咲くんだから、当然でしょ」
「ふうん」
そういうものなのか。
「ほら、よくハムスターがかじってたりするじゃない。テレビとかで見たことない?」
「ん〜? どうだっけ」
あんまり記憶にない。それよりも、
「こんなに沢山、どうするのさ。ひょっとしてなっちゃんが食べるの」
「誰が。いい、これはね……」
なっちゃんは、あたしの耳に、秘密の計画を囁いたのだった。

    * * *

夏休みのお祭りには、一緒に行こうと私達は約束をした。
けれど、その約束は叶わなかった。
明日から念願の休みという一学期の終業式の日に、それは起こった。
「なんでっ!」
いつも冷静で大声を出したことなど見たことがない彼女が、目に涙を潤ませていた。
「なんでよ!」
何でって言われても。
それは帰りの学活であたしが黒板の前に立ち、先生が皆に伝えた時だった。あたしの、転校の知らせだ。
そして彼女は、普段からは想像できない取り乱した声で立ち上がったのだ。
「なんで言ってくれなかったの……!」
あたしを睨みつける、潤んだ瞳。実際、この転校は割と急に決まったことで、言うタイミングがなかったこともある。けれどそれ以上に、予想外の彼女の怒りにあたしは戸惑い、何も言うことが出来なかった。
クラスの皆がその様子に困惑する中、その場は先生が収めて学活は終わった。しーんとなった教室で、残りの夏休み皆で楽しい思い出を作りましょう、という先生の言葉が空しく響いた。
その日、彼女はあたしと目を合わさずに、一人帰って行った。

    * * *

毎日のように会っていたあたしたちは、夏休みに入っても顔を会わせることはなかった。
楽しみにしていた夏祭りも、他の子に気を使われるのが嫌で、結局一人で行った。
家では着々と引越しの準備が整っていき、段ボールが積まれていく。そして出発の前日、あたしは思い立った。
夜、あたしは家を抜け出して暗い路を走る。あたしくらいの子なら大抵寝てる時間だけど、きっとその窓は明かりが灯っていると思った。何度も通った道は、妙に新鮮に感じられる。歩道を越え、垣根を回り込み、その窓の前に立つ。番犬とか飼っていなくてほんと良かった。
息を落ち着かせて、コンコンとガラスを叩く。三度目で、カーテンがゆっくりと動いた。あたしの顔を見て、窓を開く。しばらくの間の後、彼女は口を開いた。
「なにさ……」
その目が赤く見えたのは気のせいだったろうか。
「なっちゃん、ほら、あの」
あたしはつっかえつっかえ言った。
「あの話、向日葵の。あれやろう」
「……え?」
思い出すのに、少し時間がかかったようだ。
「え、今?」
「うん。今から」
気まずそうな顔は、驚きと戸惑いに変わる。
「ほら、早く」
「ちょ、ちょっと」
腕を引っ張る。
「待って、靴、靴」
「あ、そっか」
「……玄関から、取って来るから。ちょっと待ってて」
それはオッケーってことだよね。しばらく待つと、彼女は靴を持って戻ってきた。
「家族に見つからないようにするの、大変だったんだから」
渋々そう言いながら、窓に腰掛け靴を履き、手には秘密の袋を持って、そして静かに地面に降り立った。
「まったく、急すぎるよ。何でこんなときに……」
「いいじゃん。ほら、天気もいいしさ」
星が輝く、透き通るような夜空。それを言い訳にして、あたし達は歩き出した。
最後だからとか、思い出にとか、そういうことをお互い口に出さなかったのは、見栄を張ったのか、単に名残惜しかったのか。

    * * *

向かうは駅の方向。そんな夜道を小学生二人が歩いているなんて、目立ってしかたないと思うけど、そこはさすが田舎の利点。お巡りさんに見つかることもなく、無事にその場所にたどり着いた。
駅からちょっと離れた、何もない空き地。何もないなら家でも建ちそうなところなのだけれど、すぐ向こうが海への急斜面ということで、子供たちの遊び場にもなっていなかった。雑草が生い茂る中は、虫達が元気よく鳴き声を響かせ、遠くの水平線にはイカ釣り船の明かりが点々と灯り、そして大空に横たわる天の河が、あたしたちを包んでいた。
「あー、あれが夏の大三角形か」
見上げるなっちゃんが呟いた。
「えっ、どこどこ?」
「ほら、あの白鳥座と、わし座とこと座」
「え、どれぇ? 分かんない」
「星座図持ってこればよかったかな」
それは夏休みの宿題のひとつだった。でもあたしは北斗七星すらわからない。
「まあいいや、星なんていつでも見れるし。それより早くアレ見せて」
「はいはい」
広げたあたしの手のひらに、なっちゃんは袋からひと握り取り出してくれた。
「やっぱでかいねえ、向日葵の種」
触った感じ、ちょっと柔らかくて意外。
「で、これどうすんの? ちゃんと埋めた方がいいの?」
「まあそうした方がいいかもね。そのままだと猫とか食べちゃうかも」
「美味しいのかなあ」
形からピーナッツのような味を想像してみるけど。
「ちょっと食べてみなよ」
「えー、どうかなあ」
「殻の中身を食べるらしいよ」
「どれどれ」
中には白い、ちょっとやわらかい部分があった。それを口に含んで、噛んでみる。
「んー、べつに、味無いなあ」
気づけばなっちゃんは腹を抱えて笑っていた。
「なにー?」
「あはは、本気で食べるとは思わなかった!」
「えっ! だましたのっ?」
「はー。いやいや」
涙をぬぐって彼女は言う。
「食べるってのは本当だよ。でも確かフライパンで焼くんじゃなかったかな。生じゃ食べないんじゃないの」
「ええー!?」
膨れっ面をするあたし。でも、なっちゃんのこんな笑顔を見るのは久しぶりで、なんだか嬉しくもあった。
「はー、すっきりした」
しばらく笑ったあと、彼女は優しい微笑みで私を見た。
「……わたしはさ、きっと怖かったんだ」
「えっ?」
急に変わった話題に、あたしは何のことか分からなかった。
「転校のことは、しょうがない。そのことを怒ったんじゃないの」
「……ああ」
やっと、いつものあたしたちに戻れたって感じだ。
「……あたしが、言わなかったから?」
「んー、それもあるけど……」
少しうつむいて、彼女は言葉を濁す。それを見て、あたしは口を開いた。
「あたしさ、先生が言ったみたいに、思い出作りみたいにされるのが嫌だったんだ」
なっちゃんが、あたしを見た。
「それってなんか、友達関係を精算されるっていうか、そこで途切れるっていうか、そんな気がして」
あたしは星を見上げて言う。
「そうじゃなくて、いつも通り、またねって言って、そのまま別れるみたいな、そんな風に、なっちゃんと過ごしたかったの」
七夕にはまだ早いけど、空を横渡る天の川が輝いている。
「だから黙っていたの。それで怒らせちゃったみたいで、ごめんね」
「そっか……わたしこそ」
すっと、あたしの手を握って言う。
「怖かったってのは、わたしの不安が形になったみたいで」
「不安?」
「……私は、きっとこの先、この町で暮らしていくと思う。けど、大人になればきっとあんたは出て行くんだろうなってずっと思ってた。あんただけじゃない、他のみんなも、沢山。私は一人、取り残されるようで」
絡めた指に、力がこもる。
「だから、今のこの楽しい時間が、ずっと続けばいいって……終わらなければいいって……」
その目が、寂しさを物語っていて。
「……大人なるのが怖いの」
私よりいくらか背の高い彼女が、とてもか弱く見えて。
「そっか」
あたしは、気づけば彼女を抱きしめていた。
「離れ離れになるのは、仕方ないよ。ずっと一緒なことのほうが、珍しいと思うし」
小学校から、例えば大学まで一緒とか、それはほとんど聞かないことだろう。
「だけど、大人になれば、いくらでもその距離を飛び越えて会いに行けるんだって。大人になるってことは、自分の世界が大きくなることなんだって」
なっちゃんは、静かに聞いていた。
「だからその分、離れてたって平気だよ。だって、広がっていくあたしの世界の、その動かない中心が、ここなんだから」
どのくらい時間が経っただろう。その静寂は、彼女の言葉で途切れた。
「随分……」
ゆっくり体を離す。
「随分、かっこいいこと言うじゃない」
「えへへ、ついこの前、人から聞いた話なんだけどね」
「どうせそんなことだと思ったけど」
目元をぬぐう。光るものが、見えた気がした。
「……ま、許してあげる。いいよ、行っても」
「あ、うん……ありがとう、なっちゃん」
「ふん、どういたしまして」
そう言ったなっちゃんは、いつもの不敵な顔のなっちゃんだった。

それからあたしたちは何を話したのだろうか。思い出せないということは、たぶんありふれた、何の変哲もない、いつも通りの会話をしたのだろう。いつも通りの、そしてそれ以来途切れてしまった会話。
星空が生み出す影の中、お互いの顔はよく見えなかったけれど、きっとそこには、ただ笑ってしゃべって、夢中になって種を植える二人がいた。

これが私たちの、秘密の計画――
その名も『空き地を勝手に向日葵畑にしよう計画』――